ぬくもり

最近おうちでは冬はこれ。
某アウトドアショップで
セール品でゲットした
お山用の靴下。
ウールではないけど
厚めでしっかりしてて
気に入ってる。
色違いで赤を今年は購入。
これは一昨年?買ったのだったかな。
気づいたら、穴が開いていた。
隣町の某ショップに行けば
新しいのを買えそうだけど、
生地がしっかりしてるから
もったいなくて
ちくちくしてみた。
縫うというより
織物的な修理法。
初めてやってみて
ずいぶん下手くそだけど
ちょっとうれしい。
やらなきゃならないこと
もろもろ気になりつつ、
夜中に発作的に夢中で繕った。
いい時間だった
というおまけがついた。
便利じゃないものは
大体そうだ。

この青いグラスは
すっごく飲みごごちがいい。
小さめなのも
私の大きくない手に
ちょうどいい。
水飲みようだけど
まるで味が違うくらいに
美味しく飲めるから
水がごちそうになる。
沖縄の桜坂劇場の2階の
夜の誰もいない売り場で
ちょこねんといた。
この小さいタイプはひとつしかなかった。
小さいゆえか
お値段もお手頃だった。
桜坂劇場は夜遅くまで
映画を上映しているので
2階の物販もあいている。
が店員さんは1階にしかいない。
監視カメラがあるのかしら?
でも全く見当たらず。
結構高価な作品もたくさん
置かれている。
こういう自由に信頼されている場所は
東京では考えられないように思う。

このグラスのいいところは
そんな記憶にもつながっているからかもしれない。
ネットで手軽に購入できたのとは
まったく違う。
ずっと大事にしたいと思う。

ラジオで向田邦子さんのトークを
はしり聞きした。
あの大作家さんは手紙も書かない。
ついありていな言葉で
うめてしまいがちだからという。
今の時代では手紙は貴重なので
もし生きていらっしゃったら
また違う感覚かもと思うけど
いってみれは
SNS(インスタやFacebook)の言葉はそんな気もする。
というか
何か記すたび
不特定多数の人に読まれるという前提からか
卒がないようにという意識が
思っている以上に働く。
が故に
自分じゃないなあと思うことも
たびたびある。
そんなふうに書く人ばかりではないが
形にするとき
どこか言葉に納めるために
とりこぼしたり
ごまかされたりする気持ちが
本当は根雪のように
たくさんあるのではないかと
思う。
その点
どんな形であれ
作品は
言葉であれ絵であれ
依頼されたものであれ
体裁を整えたとしても
どこかしらに
根雪のかけらが混ざっていたりするように思う。

そう思うと
むやみやたらに
言葉にしない方が
言葉に対する感覚が
うるおってくるような気もしたりする。

ところで
私のまわりには
スマホというか
ケイタイを持たない人が
軽く数えて3人はいる。
そういう人と待ち合わせしたりするとき
けっこうドキドキなのだが
電車の遅延もたびたびあるし
そこに開演時間が決まっていることなどが
絡むと
ほんとに大丈夫か?と
思ってしまうけど
けっこう大丈夫なんだよね。

そう思うと
いらないメッセージや情報で
日々大事なものがまた
見えなくなってるかもしれないと
しみじみ思う。

インスタの投稿は
写真を撮るのが好きだから
嫌いではなかったけれど
思いがけないコメントで
うれしいこともある反面
そこしか見てくれてないのかと
思うことの方が
強くマイナスな印象に残ってしまう。
結局は人肌の触れ合いが
一番確かで
ありがたいのだと
あらためて考えている。

星占い的には
風の時代と言われている。
リアルな触れ合いより
ネットの世界が栄える、
それに乗っていきなさいと。
でも私は古い人なのか
でもきっとこの世から去るときに
思い出すのは
ネットでの盛り上がりではく
見えない触れ合いではなく
たとえうれしく感じたような
リアルにはありえないことではなく
人肌の思い出なんだろうなと思う。

だからというわけじゃないけど
ごく当たり前だけど
忘れ去られていることだからこそ
さわれるぬくもりある感触だけを頼りに
歩いていきたいと
しみじみ思う年始であった。