ピアノのたび

それは
10月の新月の夜明け。
まだ暗い時間に目が覚めて、
何時だろうと寝床から手を伸ばし
スマホを開けた。

ら。

いきなりFacebookが開いて
ちょ〜懐かしい画像が!

 

そうです。これは、
忘れもしない「ピアノのたび」。
1993年に私が作ったおはなしです。
当時は高木苗穂子という名前で出てました。
(河本さんの文字はちょっと違ってます。。(^^)

何しろ、まだ寝床であたりは真っ暗なので、
「夢かな?」と思いました。
が、夢じゃなかった!

河本さんも当時と若干違うお名前になってます。
ボローニャでも賞を取られていたり、
活躍は存じてましたが、
Facebookでも現実にもお会いすることなく。

そこに突然現れたこのポスト。
こんなことってあるのね〜。
見てみたら、共通の友達が何人か。
そのせいか?と思われるけど、
それにしてもびっくりです。

ちょっと落ち着いてから、
メッセージやり取りしました。
ら。
またびっくり。
私が今住んでる街に今年の1月まで10年いて、
今は介護で名古屋に引っ越されたとか。
(名古屋は私のおばあちゃんの故郷で
子どもの頃はお墓があったので
毎夏のお盆には行って街です)
ええ。そんなことってある??
あまりに似たような境遇にびっくりです。
どこかですれ違ってたかもですね。
でも27年前ですからね。。お互い(^^)
この絵本は、おはなしえほんという学研から出てる
月刊誌で、一冊1話のおはなしですが、
市販化されてないので、
私の手元にももはや1冊あるのみ。
たまに図書館で見かけますが、
レアです!

その後も大活躍の河本さんが
覚えていてくれただけでもうれしいのに、
さらにリメイクしてみたという
カンゲキのポストでした。

この投稿のおかげで、
この本ができたいきさつも思い出しました。
当時、私はもうフリーになってましたが、
まったく内容には関わっていない
とある雑誌の表紙の受け取りだけをするという
仕事を頼まれていて、
というのも、
河本さんと私がわりと近くに住んでたからです。
(そうだ、当時も、、だから、嗜好が似てるってことか)
ただそれだけの理由。
ナオちゃんお願い、と
その雑誌のちょっと年配の編集者に頼まれて、
お茶飲んで原稿もらって、
自分の仕事のついでに
学研に出向く時に持参すればいいという
本当に遊びみたいな仕事でした。
受け取りの仕事なんて、
もはやコロナ以降は
というかデジタルな時代になって
無くなってしまったものかもですね。
で、
河本さんもふらっと来れる距離だから、
いいお店を見つけたとか言って
光がキレイな大きな木のテーブルがある
当時は珍しかったカフェっぽいお店で
毎月息抜きみたいな
のどかなお茶飲みタイム、、

の延長に、
このおはなしができたという
夢のような理想的な作り方ができたのです。

その雑誌の河本さんの表紙イラストに
ピアノがスニーカーはいてるものがあって、
かわいいですね、おはなしになりそう。。から始まって、
ちょうどのタイミングで依頼されたおはなしえほんの
おはなしのモチーフにしたってわけです。
会議なんかもわりとするする通って、
ラストページには
本文イラストとは違う板に彫って着彩という
イラストを作ってくださり、
そこに私の書き文字を入れました。
おはなしのその後のこと、という意味を込めて。

コンサートホールのピアノが嫌になり
違うものになってみたいと
グランドピアノが旅に出るストーリーで、
海に行ってお魚になろうとするも厳しく
山に行って小鳥になろうとするもダメで
もう何にもしたくないと
はらっぱでゴロンとしてたら、
風や雨粒に鍵盤を撫でられ、
その音を聞いて動物たちが集まり、
一晩中の音楽祭になるという。
そして、今は、
旅をしながらいろんなみんなと歌っているで
終わります。

このラストシーンは
コンポステラというバンドのイメージもありました。
92年篠田昌己さんの早世で終わってしまったバンドです。
もしかすると、このびっくりは
篠田さんが仕組んだ?のかななんて、
今ちょっと思いました。

どうかな。

(当時のラストシーンです!ここがすっごい気に入ってます!
文字はGペンにインクで書いたのよね!

 

その頃河本さんとは他にも何作か作りました。
玄光社のイラストレーションファイルに
おはなしの一面を作の私の名前も入れていただき、
掲載していただいたものもありました。
そのうちのひとつをまた
作り直してみようとなり、
まだとりかかれてませんが、
グループ展が終わったら、
ぜひちょっと取り組んでみたいです。

ちょっとポストが遅くなりましたが、
今年あったキセキのひとつでした・・(^^)

ありがとうございました!